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zoom RSS かつて日本には「ベ平連」があった、それらに賛同した人は「かの国」の蛮行に声を上げるか

<<   作成日時 : 2018/04/20 22:10   >>

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かつて「ベトナムに平和を」のかけ声で、「べ平連」なる連合体があった。
平和を唱えて、当事国に出かけていくでなく、平和な日本で騒ぐだけの活動・・・。

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そんなものと、実際に「アメリカの犬」として「金のための傭兵」の集団がいて、これが蛮行の
限りを尽くした・・・。
当時、それを知っていたら「べ平連」は、すさまじい「嫌韓」に傾いていたか・・・。

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2018年4月19日、韓国・ニューシスによると、ベトナム戦争中に韓国軍が起こした虐殺事件の生存者
がソウル市内で会見を開き、韓国軍の銃撃により弟を失った経験について語った。
フォンニィ・フォンニャットの虐殺の生存者である女性は会見で「なぜ韓国軍は女性と子どもだけだっ
た私たち家族に銃を撃ち、手榴弾を投げたのか」「どうして韓国軍は恐ろしい過ちを犯したのに、50年
以上認めることも謝罪もしないのか」と訴えた。また、女性が「死んだ弟は韓国軍の銃撃で口が飛び
散った」と述べた後に感極まって黙り込み、これを見たハミの虐殺の生存者が涙を流して女性の手を強
く握る場面もあったという。
韓国軍によりそれぞれ5人の家族を失った2人の生存者は「50年が過ぎた今も当時の残忍な虐殺の理
由が分からない」とし、「参戦した韓国軍人から謝罪を受けたい。最低限の謝罪がなければ許すことも
できない」と主張したという。
また、2人は21日からソウルで開かれる市民平和法廷に参加する。これはベトナム虐殺の被害者が原
告となり、被告の韓国政府に対し虐殺への責任を問うというもので、昨年の11月から民族問題研究所
など24の市民団体が中心となり準備を進めてきたという。
2人は「怖くても勇気を出した理由は、無念にも犠牲になった家族のため」とし、「二度と起きてはならな
いことを世界に伝えることが、生き残った私たちの使命」と強調。市民平和法廷準備委員会は「フォン
ニィ・フォンニャットの虐殺もハミの虐殺も1968年に起きた事件」と説明し、「50年も遅れたが、正義を掲
げて真実を明らかにする」と話した。





この報道に、韓国のネットユーザーからはさまざまな声が寄せられている。

「深く反省しよう」
「日本に謝罪を求めるだけではいけない」
「彼女たちのつらさは韓国国民が一番分かっているはず」

など「謝罪すべき」とする声も多いが、

「謝罪はしたが、ベトナム政府が何度も拒否した」
「ベトナム政府が謝罪は不要と言った。戦勝国だから」
「もう解決済みだよ」

と反論する声も目立つ。

そのほか、

「米国からは謝罪を受けたの?」
「韓国が謝罪するならベトナム戦争に加わった他の国もするべき。なぜ韓国だけを責める?」と
指摘する声や、
「両国が共同で真相調査チームを作るべき。謝罪はその後だ」
と慎重な意見も見られた。

2018年4月20日(金) 7時50分
http://www.recordchina.co.jp/b593438-s0-c30.html
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「韓国が謝罪するならベトナム戦争に加わった他の国もするべき。なぜ韓国だけを責める?」
こういった意見に、忖度してやるか、はたまた「嫌韓」に、その昔の若者達は・・・。

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当事国でなく、他国の人々が「蛮行」に声を上げる。
その昔の「べ平連」も、勝手連的運動をしていたのを思い出すと、賛同はあっても拒否は出来ない
だろうと思うが・・・。

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ベトナム戦争に派兵された韓国兵士の女性暴行「韓国政府に謝罪要求」英国で団体設立、混血児
問題で像制作

【ロンドン=岡部伸】ベトナム戦争に派兵された韓国軍兵士がベトナム女性を性的暴行するなどして
「ライダイハン」と呼ばれる混血児が生まれた問題で「暴行の犠牲者になった人たちを救おう」と、英
国の民間団体「ライダイハンのための正義」が12日、正式に設立された。
団体の設立を呼びかけたのは、英国の市民活動家、ピーター・キャロル氏。同氏は「ベトナムで韓国
軍兵士の性的暴行に遭った女性たちが苛酷な人生を送っていることを多くの人たちに知ってほしい」
と訴えた。


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ロンドン市内で開かれた設立イベントにはブレア、ブラウン両政権下で司法相や外相などを務めた労
働党の重鎮、ジャック・ストロー氏も参加。同氏は基調講演の中で、「ベトナムで韓国兵が行った性的
暴行は重大な人権問題だ。被害女性が求めているのは賠償ではなく謝罪。韓国政府は女性たちに謝
罪すべきだ。人権重視の英国から被害実態を調査することを国際社会に求めたい」と述べた。
一方、同団体のメンバーで英国人フリージャーナリスト、シャロン・ヘンドリーさんは、ライダイハンを育
てたというベトナム女性7人から被害実態を聞いた。韓国兵は多くのベトナム女性に性的暴行を加え
たり、慰安婦として強制的に慰安所で働かせていたりしたと指摘した。
その上で、ヘンドリーさんは「人間として恥ずべき行為がベトナムで行われた。国際社会が被害女性と
子供たちを救うため立ち上がるべきだ」と話した。事実関係究明のため、英国議会に調査委員会設置
を求める考えも表明した。
同団体のメンバーで、設立イベントに参加した英国人彫刻家、レベッカ・ホーキンスさんは被害女性と
その子供たちのために制作した約40センチの「ライダイハン像」を披露。同団体では等身大のライダ
イハン像を制作し、在ベトナム韓国大使館前などに設置し世論喚起することを検討している。
同団体によると、韓国の朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領はのべ約30万人以上の韓国兵をベトナム
に派兵。韓国兵は13、14歳の少女を含むベトナム女性数千人に対し性的暴行を行い、その結果生
まれたライダイハンは5千〜3万人いるとされるが正確な人数は明らかでない。
ライダイハンの父親は、韓国兵のほか韓国の建設会社などから派遣された民間人や軍属の韓国人
男性らだ。1973年に結ばれたパリ和平協定による韓国軍撤退などで韓国人男性らは帰国し、ライ
ダイハンは置き去りにされた。
75年にベトナム戦争が終結した後、南ベトナム政府の崩壊により、共産党政権下でライダイハンは
「敵国の子」として迫害され、差別されてきたという。

2017.9.19 07:00更新
https://www.sankei.com/world/news/170919/wor1709190010-n1.html





謝罪も賠償もなし……韓国軍兵士によるベトナム人レイプ「ライダイハン」問題に、世界から批判の目
日刊サイゾー / 2017年9月30日 19時0分

慰安婦問題で日本を批判し続けている韓国で、ある問題が物議を醸している。ベトナム戦争に派兵さ
れた韓国の兵士たちがベトナム人女性をレイプし、「ライダイハン」と呼ばれる混血児が生まれた問題だ。
きっかけは、韓国の元慰安婦支援団体「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」や女性団体が今月14日
から始めたデモだった。彼らは「日本のように戦時の被害者を否定してはいけない」との理由から、駐韓
ベトナム大使館の前で「ベトナム政府とベトナムの人々に韓国国民として心から謝罪します」と書かれた
プラカードを掲げ、謝罪デモを開始。毎日交代で10月31日まで行い、11月にはベトナムで“謝罪行脚”も
予定しているという。
韓国メディアもこのデモについて大きく取り上げており、「慰安婦被害のおばあさん“韓国人としてベトナ
ム女性たちに謝罪します”」「挺対協、ベトナム大使館の前で“謝罪“1人デモ」「慰安婦被害者たち、ベト
ナムに謝罪“韓国軍が犯した…”」といった見出しが並んでいるが、韓国兵士によるレイプについて詳し
く説明するメディアは見られない。
さらに、追い討ちをかけるようにイギリスの民間団体「ライダイハンのための正義」が正式に設立され、
世界的な注目も集まっている。同団体は今後、在ベトナム韓国大使館前などに、等身大のライダイハ
ン像を設置する予定だというから穏やかではない。
慰安婦問題では、2015年の日韓合意後も対日批判を続けている韓国だが、このライダイハン問題では
いまだ正式に謝罪も賠償もしておらず、政府にとっては耳の痛い話。
韓国ネット民たちも突然の出来事に動揺を隠せないようで、「歴史的事実を認めればドイツのようになり、
なかったことにすれば日本のようになる。選ぶのは国民だ」「日本軍慰安婦のことを思えば、ベトナムの
国民たちに苦痛を与えたことにも思いをはせるべき」「ベトナムでの過ちを歪曲すれば、私たちもチョッパ
リたちと同じになるぞ」といった具合だ。
中には、「謝罪はしなければいけないけど、政府が組織的に行っていた日本の犯罪とは規模や性質が
違うから、同一線上に並べるべきものじゃない」「挺隊協が慰安婦問題の解決を難しくしているんだよ」
といった意見もあった。
また、一方で「韓国の利己的な素顔が、そろそろ露呈し始めるときだ」「謝罪だけじゃダメだろ、お金をあ
げなきゃ」「だから国力を上げなきゃいけないんだ。国が弱いと、ほかの国の奴隷になるんだよ」「(ベト
ナム戦争では)米軍として戦ったんだが」といったコメントもあった。
いずれにしても、慰安婦問題で日本を批判してきた韓国にとって、「ライダイハン」問題は強烈なしっぺ
返しを食らったようなものだが、果たして韓国社会にはどのような影響を与えるだろうか?
(文=S-KOREA)

https://news.infoseek.co.jp/article/cyzo_20170930_1032391/
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昨年の記事をあげたが、「火付け盗賊」のメディアは、勿論「沈黙が金」だと思っているようで・・・。



こういった楽曲も、「反戦歌」でなかったが、現地の人々が歌うと「とたんに様相を一変」して、
「雨」がとても悲惨な凶器へと変貌して・・・。それに「ベトナム戦争後遺症」のアメリカ兵の惨状を
思い浮かべると・・・。
そんな現実と「べ平連」との乖離は、時の流れの残酷さか・・・。

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ベ平連始末記 
(毎日新聞社『連合赤軍・”狼”たちの時代』 1999. 12に掲載.)          

べ平連の発足は1965年4月ですが、私が事務局長としてかかわったのは65年の1I月。最初の事務局
長の映画プロデューサー久保圭之介さんが映画の仕事に戻ることになったとき、僕の友人の武藤一
羊が「知り合いに失業者がいる。女房が働いているから金払う必要がない」と言い、じゃあ、そいつを
使おうとなったらしい。僕は前年に共産党を除名されていて、ありとあらゆる仕事がなくなって、全くの
失業状態でした。

┃共産党除名者の遠慮┃

実は、べ平連ができたとき、参加したいと思ったけど、共産党から除名されたばかりですからね、遠慮
していた。当時は共産党を除名されると、生まれたときから悪魔だったということにされてしまう。
ひどい扱いでした。そんなのがべ平連にいると、せっかくできたばかりの新しい団体に迷惑がかかると
思い、それで僕は創立のときのデモに行ってないし、2度目のデモでもひっそりと後ろのほうにくっっい
ていたんだね。だから、事務局長をやれと言われたときは、ちょっと待てよ、俺でいいのかよと思い、
それで小田実さん自身の意見を聴いてみようと、デモの後に初めて小田さんと喋ったんですね。
私はこういう札付きの男なんで、共産党との関係がマズくなるがそれでいいのかと念を押したんですよ。
そしたら、全然カマヘン、何の関係があるのよ、アンタ手伝ってくれるんやろ、いいやないか、でも金だ
けは払えへんでえー。俺、別に金ほしいわけじゃないよ。じゃ、いいじゃないすか。で、決まり。
驚いたねー。こんな運動ってあるんだと。おっ、やってやろうじゃないかという気になったもの。
普通は、そう、そういう立場なら遠慮してもらったほうがいいね、と言うでしょ。本当に新鮮な驚きでしたね。
映画館で、いよいよ本番になると、幕がわ一っと横に広がって、デーンとワイドな画面になる。
ガガガガガーッと広がる。あれなんですよ。共産党からべ平連へ変わったってことは。運動の中に、
こんな世界もあったんだと思いましたね。
べ平連の活動でいちばん印象に強いのは、やはり脱走兵援助でしょうかね。脱走兵を安全に匿い、
国外に脱出させる、これは大変な仕事でしたが、スリルもありました。今から思ってもよくやれたと思
います。反戦米兵を援助しようという話題は、1966年8月に東京で行われた「ベトナムに平和を!日米
市民会議」のときに出ていたんですが、最初はあまり現実的には考えていなかった。

市民的不服従原理とイントレピッドの脱走兵┃

実はこの日米会議の前の6月に、アメリカから2人の活動家、ハワード・ジン(当時ボストン大学教授)
とラルフ・フェザーストン(主に黒人の学生の運動団体である学生非暴力行動調整委員会=SNCCの
活動家)を招いて、北海道から沖縄まで全国14カ所、ものすごいハードスケジュールで、一日3回なん
てこともありましたが、反戦講演旅行をしたんです。これはべ平連の組織を全国に広げるきっかけに
なると同時に、僕らにものすごく影響を与えた。
それまで日本の運動になかっただけに、特に黒人の闘争の話から非暴力直接行動と不服従の理念が、
新鮮な衝撃をもって受け入れられた。また8月の日米会議で小田さんが、国家が個人を被害者の立場
に立たせ、それによりベトナム人民に対しては加害者にさせる、という有名な被害者=加害者の主張
を述べました。さらに鶴見俊輔さんらがべ平連有志で「非暴力直接行動委員会」なるグループをつくり、
北爆が行われたら直ちにアメリカ大使館に無届けだが行動を起こそうと、つまり市民的不服従の行動
が提唱されたのです。これらが合わさり、以後のべ平連の思想と行動の基本路線が敷かれたと、僕は
思ってます。
(中略)

┃「絶対」という言葉を使うな!┃

それと一」部の新左翼党派間の内ゲバ問題ですね。これがいちばん苦労しました。しかし、べ平連は内
ゲバを決して見て見ぬふりはしませんでした。やめさせたいと思った。実際、市民グループが対立する
両派の竹竿の槍ぶすまの間に徒手空拳で「内ゲバ、やめろ」と割って入ったこともあります。
なぜ内ゲバが起きるか、自分を相対化できないからでしょうね。そりゃ、誰だって、正しいと思って自分
の方針や行動を選ぶ。だけど、そういう選択がもしかしたら間違っているかもしれないということは、
どっか自分の中に保留しておかなくてはいけない。絶対に正しいなんてことはない。「絶対という言葉を
使うな」というのは鶴見さんから教わったことです。
内ゲバにもリンチにも共通しているのは、思想の違いや戦術の違いを肉体的な抹殺によって解決できる
という信仰ですよ。鉄パイプで殴ったり、土の中に埋めたり、相手の肉体を抹殺することは、それは物理
的に可能ですよ。しかしそれによって、思想的に勝利すると思い込むわけです。これはある意味でニヒ
リズムです。それは堕落の極致です。自分を相対化できない運動の行き着く先はそこへいく。
1972年の連赤のリンチ事件を聞いて、そりゃ、ショックでしたよ。基準が狂うとあそこまでいっちゃうのかと。
私の場合、学生時代の体験がありますからね。それは大江健三郎の小説(『偽証の時』)にもなってます
が、1952年末ころから53年にかけて、全学連に入ってきた学生をスパイだと監禁、査問する事件が起き、
その学生が逃げて交番にかけこんだことから発覚、容疑者4人が逮捕・起訴され、5年近くの裁判の結果、
無罪となるんですが、僕はその被告の1人でした。ただし当時すでに学生ではなく平和運動に活動の場
を移していたのですが、その学生を知っていたことから査問の席に一回だけ同席してました。
当時も感じていたし、いまもその学生は恐らくスパイではなかったと思っています。僕は無罪判決後、
この事件をできる限り忘れようとしました。が、閉鎖的な革命志向集団の中での、この種の事件がもつ
暗さ、出口のなさ、問題が未解決であることなど、忘れられるものではなかったし、忘れていいことでも
決してないんです。
それから1950年代、日本共産党でスパイ探しの、総点検運動が始まりました。誰かの下宿に行ったら
探偵小説があった。アイヅは堕落していると、それで査問の対象になった。いまの共産党からは信じら
れないでしょうが、しかしこの総括はきちんとされてはいないですね。いったん基準が狂うと、そういうこ
とが起こるんです。だから連赤の婚約指輪を持っているからブルジョワ的だなんて、笑えないですよ。
根本の人間的なところが異常にはずれると、そういう極端な激しい論理というのは、かえってまかり通る
んです。当時のマスコミも、たとえば永田洋子はバセドウ氏病だの、常態でないなど書き立て、常人の
集団でないとした。つまり自分らと彼らの間を切った。俺らはあんなのと違うよと。そうすることで、自分
は彼らを批判する立場に立っていると思い込める。しかしそうすると、自分の中にそういう可能性があ
ることをも切ってしまう。それも非常にあぶない。
実は事件報道の直後、ベ平連は岩国で全国懇談会を開いてまして、そのときも僕は同じことを話して
ます。しかし、ほかに「主権者たる人民がやる運動の戦術については、権力やその手先になっている
マスコミにとやかく言わせない。それを選ぶ権利は、われわれの側にしかない。爆弾を投げる必要が
あるかないか、銃を持つ必要があるかないか、これを選ぶのはわれわれであって、権力の側が指定
することじゃない」とも話しましたし、さらには党も軍も必要だなどとも言ってます。当時も真剣にそう考
えていたわけではないんですが、連合赤軍のショックから若い連中を救い、どうしたらああいう道に行
かせないかと考えて、余計なことをいったんですね。ただ、べ平連や市民運動がやってきたことさえ基
本に取り込めないような党や軍では話にならない、そんな社会変革なんて、挫折するに違いないとい
う気持ちでしたね。ベ平連には限界があるという批判は最初からありました。でも限界は当然でね。
運動自体が「ベトナムに平和を」という目標に限定しているんですから。しかし新左翼党派などからは
「労働者の階級意識を眠らせてプチブル市民運動の中に解消させる反動的組織」とか、「文化人のベ
トナム遊び」とか「大衆の良心に安い金で免罪符を売っている組織」とか、悪口をさんざん言われまし
たよ。あとベ平連トンネル説というのもありました。日和見の学生はベ平連にでも行って、少し鍛えら
れていらっしゃい。どうせアイツらの限界がわかって物足りなくなるから。トンネルを抜けたら向こうに
新左翼の党派が待っている、というわけです。だから彼らは限界があったほうがありがたかったんじ
ゃないかな。

(中略)

┃追放も除名もない┃

確かに小中さんは物議をよく醸したんだけど、それなりの役割も果たした。つまり、一種の解毒剤。
だって、共産党の党員が宮本顕治をおちょくる暴露小説を書くわけない。そんなことしたら、えらい騒ぎ
になる。創価学会の会員が田大作の女関係を暴く小説を書くわけもない。そんなところがベ平連のベ平
連らしい一面でした。眉をしかめることはあっても、追放なんてしない、は暗黙の了解でしたし、小田さん
だって「小中けしからん」と言ったことない。「俺の不徳のいたすところだ、アハハハッ」って感じでね。
やはり小田さんに関係あることで、あまり知られていないが、内部では大事件だったのが「冷え物」討論。
1970年暮れのことですが、部落解放同盟とは違う「関西部落研」という組織が、小田さんが『文藝』に発表
した「冷え物」が差別小説であると糾弾、ベ平連がそれを認めることと刊行中の『小田実全仕事』からこの
小説を削除することを要求してきたのです。ベ平連はしっちゃかめっちゃかの騒ぎになりましたよ。
この事件で1回だけべ平連ニュースが休刊になりました。
僕は野間宏さんのところや、最後は京都の部落解放同盟の書記長の家:1まで相談に行った。
野間さんも真剣に応対したくれたし、小田さん自身も悩みに悩んで。でも、この「冷え物」に対する小田さん
の対応の仕方は、実に見事だった。小田さんは、自分の小説を抹殺することを断固拒否する。その代わり、
自分の小説と同じ分量のぺージを関西部落研に与え、どこがいけないのか、全面的に批判するように
提案し、それを合わせて一冊にして出そうじゃないかと言ったんです。しかし、彼らは結局、逃げてしまう。
書けないんです。そこで部落解放同盟員で新日本文学のメンバーである土方鉄さんに、その小説の批評
を依頼したんです。土方さんは、小田がどう思おうと、これは差別小説と言わざるをえないという評論を書
きました。これと合わせた一冊として、この「冷え物」は出たんです。こうすると、原典の小説はどんなで、
どこが差別小説と言われたのか、それをどう思ったらいいのか、あとの人びとがたどれるんです。
土下座して謝って、ただ消してしまうのでは、一体、どこが問題だったのか、わからないですよね。
それにしても、大変な騒ぎでした。若者は部落研などの批判に同調する、僕みたいな事務局は、中国の
文革でいえば劉少奇、保守派「官僚」だから、「造反有理」で打倒するんだと。まあ私はもともと「官僚」と
呼ばれていましたがね。
(中略)

パリの和平協定締結をもって、べ平連は74年に解散しました。解散すべきではないという意見もたくさん
ありました。「べ平連を解体する裏切り者吉川川」なんて法政大学べ平連のビラは今でもとってあります。
ただ「内閣」のメンバーは、全員一致で解散でした。べ平連は多いときは全国に350ほどありましたが、
それらは独自のグループで、そこに義務関係はなく、ただ年に1回全国懇談会をもつだけで、東京が解散
でも他は自由です。京都べ平連はそれより前に解散してますし、福岡べ平連は、「解散はべ平連に似合
わない、似合うのは、野たれ死にだ」という意見でした。
もっとも、解散後も、南ベトナムの政治犯を釈放せよという運動をやる人もいたし、小田さんが言いだして、
しばらく毎月定例で経団連ビルにデモをかける運動もしました。こういうのはいっぱいありました。
当時の若い連中に会うと、ベ平連の精神をいまの生活の中でどう生かしているかなんてみんな延々語る
んですね。そういう意味でも、べ平連はその後のいろんな運動にも、考え方にも影響を与える種を蒔いた
と思います。僕自身もべ平連にかかわったことは、まず第一にとても面白かったですしねー。
なかったら僕の人生、どうだったでしょうかねー。

『いい人はガンになる』の出版記念会で挨拶する吉川氏 ……東京1999/3月
よしかわ・ゆういち 1931年東京生まれ。52年、日本 共産党入党、東大学生自治会中央委員会議長に。
52 年、講和・安保両条約反対の全学ストライキを指導したということで、退学処分。64年、原水禁世界大
会での 共産党の方針に反対し、平和委員会常任理事を罷免・除名、65年4月、日本共産党除名。
同年12月にベ平連 事務局長に。71年頃から代々木ゼミナール講師(英語)、98年12月まで在職。88年、
小田実らと「市民の意見30の会」結成、世話人として現在に至る。著書に   『市民運動の宿題』『いい人
はガンになる』、編著書 に『反核の論理』など。

http://www.jca.apc.org/beheiren/saikin%20%20beheiren-simatuki.htm
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べ平連はその後のいろんな運動にも、考え方にも影響を与える種を蒔いたと思います。
僕自身もべ平連にかかわったことは、まず第一にとても面白かったですしねー。
なかったら僕の人生、どうだったでしょうかねー。

こういうのを読んでいると、平和を騙った運動自体が「自己満足終了」の・・・。

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その時代、「若さの・・・」の杵柄が、現代でも忘れられずで集まった「傷のなめ合い集団」の様か・・・。





家に帰れば、こんな曲で不遇を慰めるのか・・・。





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「蚊帳の外」なんと素晴らしい、偏狭な蚊帳など無視して当然
人を卑しめる言葉を繰り出せば、なんとか批判も一丁前みたいな気になるが、 そもそもそこは「底なし沼」の実態を知ったら、「バスに乗り遅れるな」並の 戯れ言など聞き流すのが、賢明な人の態度ではあるだろう。 ...続きを見る
BALL AND CHAIN
2018/04/30 23:12

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